ある晴れた春の日、本当に久しぶりに地元をゆっくり、
のんびりと散策する機会に恵まれました。
わたしの地元はなかなかの田舎で、
少し歩くと山があったりこのご時世もはやめずらしいのかもしれない、
タニシの住む川が当たり前のように流れています。
仕事やめまぐるしく移り変わる日々のサイクルにほんの少しだけ疲れていた私は、
そんな愛すべき田舎に大いに癒された訳なのですが、
同時に少しだけ寂しく感じる場面に遭遇したのです。
確かに久しぶりに歩く我が町は相変わらず優しく、
多くの自然に囲まれていました。
しかし、その半面変わってしまった場所や風景もまた想像以上に大きいものでした。
子供のころに遊んだ原っぱは真新しい住宅街に、
ザリガニ捕りをした小川は大きな道路になっていたのです。
私は地元を離れて住んでいるわけではないのですが、
それでも改めてゆっくりと見渡してみると
「ずいぶん変わってしまったのだな」と実感させられるものですね。
子供のころは都心のように多くの娯楽施設もなく、
電車に乗らなければお洒落な服ひとつ手に入らない我が地元を
「まったく冴えないな」なんてよく思ったものですが、
不思議なことに今少しずつ発展してきている町を目にして
寂しさを感じている自分というのもどこか面白く少しだけ皮肉なものだと感じます。
それはきっと私にとっての地元というものの位置づけがいつのまにか
「暮らしていく場所」から、日々に少しだけ疲れてしまったり、
ほんのちょっとだけ日常から逃げ出したくなった時の
「とまり木」のような存在になっていたのではないかと思います。
以前の私の地元(上空からの写真)
きっと多くの皆さんにもこのような「変わらない場所」というものが
あるのではないでしょうか。
そしてそうした場所というものが、それが進化であれ発展であれ
変わってしまうことはそれぞれの人々にとって多かれ少なかれ
「痛み」を伴うのではないかと私は思います
時代の流れと多くの進歩や発展。
その裏には常に「変わらないもの」「変わってほしくないもの」が
少なからず犠牲になっているのだなと久しぶりの地元散策で考え直させられたのでした。
どんどんハイテク化していく現代社会。
だからこそその裏に隠れてしまいがちなかけがえのないものの存在に、
普段の生活のなかにおいても敏感でありたいものですね。
様々なエコ活動もここに一つの原点があるのかもしれません。
個人レベルの意識ひとつで、
あるいはとても大切な「場所」が守れるのかもしれないですね。
よし、とりあえず買い物袋でも手作りしようかしら。

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